どのように念仏法門に入るか


都な六根(眼、耳、鼻、舌、身、意、六つの感官)を摂めて浄念(念仏の念)を継続させる

念仏というのは三種の根機(鋭い、中等、鈍い)の人に行き渡っていることであり、利根(鋭い人)でも鈍根(鈍い人)でも修行できる法門であります。特に忙しい生活をしている現代人に最適な法門であります。念仏の法門は簡単に習いやすいものであり、八十歳の老人であっても、三歳の子供であっても念仏ができます。大学の教授が唱えることもできます。行商人も、字を読めない人も唱えることができます。心の中に自信があれば、皆自分の根機によって利益と感応を獲得することができます。より深く仏法を勉強すれば、細かく思惟すれば、更には念仏の法門によって悟り、見性することができます。少数の人は自分が利根の人だと思い、念仏することを軽蔑し、修行においての大きな利益を失っていました。このような人は本当に惜しいと考えられます。

念仏することは皆ができることですが、それぞれの根機及び知見の違いによってそれぞれのレベルがあります。この場を借りて、仏陀の名号を唱える念仏法門の境界浅いものから深いものまでを簡単に分けて述べます。

一、行き当たりばったり、 思いつきの念仏する

このような人たちは念仏法門を習い始めた段階で、どうして念仏するのかということを未だ理解できていなく、「念」仏と「唸」仏(仏陀の名号を唱えること)の違いすらわかりません。ただ「念仏は良いことだよ」と聞いているだけで、他の人と一緒に念仏を習い、仏陀の名号を唱え始めました。しかし、口で名号を唱えていますが、心の中にはいつも妄想ばかりを考え、五鈍使(貪、瞋、痴、慢、疑)は皆が様々に離さないてあります。たまに、念仏の修行集会に行っていますが、天気が悪かったり、機嫌が良くなかったりすると、参加するのをやめてしまいます。そのような人は、普段自分の心の中に名号を唱えていても、それは行き当たりばったり、思いつきのだまって念仏するだけなので、おおよその時間が妄想にふけているのです。

二、唸仏が途切れない

このような人達は前世に善根と福徳を植えたことが因として、そして現世においで善知識が引き立て導いてくれたことが縁となり、常に念仏する人達と同伴し、段々念仏する道理と念仏から得られる利益を理解でき、名号を続けて唱えることができます。常に名号に専念し、声を出さずに名号を唱えることができます。

また、元々念仏したことがない人であっても、こういう人の身近な人が同修(一緒に念仏をしている人達)と共に普段いつも念仏をしており、ある日その身近な人が突然世を去り、同修が仏陀の名号を唱え助念(往生する人を援助するために念仏を行うこと)を行い、その人は亡くなった身近な人が往生した時の瑞相を見て、また同修が名号を唱える時の荘厳自在を見て、念仏する修行の法門を受け入れ、常に声を出さずに仏陀の名号を唱えるようになりました。また、自分が念仏している仏、菩薩のこと及びその本願と事跡、仏土世界の依報、正報の荘厳を理解できるようになり、念仏の利益を理解し始めました。

三、仏陀の名号を唱えて仏陀を憶う

このような人達は既に諸仏土(通常は西方極楽世界浄土のことを指す)の依報、正報の荘厳を理解でき、更に極楽世界を深く信じ、お釈迦様が教えてくれた阿弥陀仏の四十八誓願は絶対に真実であることを深く信じ、念仏することによって極楽世界に往生することができると深く信じ、深心から極楽世界に往生するように誓願をかけます。従って、念仏の法門を探求し始め、奥深く入るために、常に思惟に心かけ、善知識が詳しく陳述している念仏法門の著書を入念に読み、名号を唱えることと念仏することの違いを理解することができるようになります。それは念仏修行の集会を参加する時に、口で唱えるだけではなく、心の中にも唱えなければならない。心の中で唱えるだけではなく、心で聞かなければならない。心で聞くだけではなく、また仏陀を憶わなければならない。仏陀を憶うだけではなく、また続いて、萬縁に投げ捨てで、名号の唱えと仏陀の憶いが妄想に絶えされないようにしなければならないのです。

このように毎週或いは毎日とても精進に名号を唱えることと、仏陀を憶うことを配合し続けます。このような念仏修行の集会を行う場合、大きな声で仏陀の名号を唱えてはいけません。なぜならば、自分の身体と気(体内エネルギーの流れ)を傷付けることがあるからです。重要なポイントは仏陀を憶う念が名号から離れないように維持すること。名号が絶えない限り仏陀を憶う念も続いていきます。頭がぼうっとしたり妄想したりすることが減少してきたら、皆に従って高くもなく低くない声で名号を唱えて、同時に仏陀を憶います。普段には心の中で仏陀の名号を唱え、心の中で唱えて心で聞きます。

心の中で唱えて心で聞くことが明確にできた場合、心の中で唱えて心の中で仏陀を憶うことに転換すべきで、声を出さずに仏陀の名号を唱えることと仏陀を憶うことを配合します。心の中で唱えて心で聞くということは声を出さずに心の中で名号を唱え、一心に集中し、自分の心の中における仏陀名号の声を観照し、途切れないようにします。これは技量であり、達成できる人は本当に多くないです。このような心の中で唱え、心で聞く習慣ができ、はっきりと絶えないようになれば、更に一歩を進めて探究すべきことは「なぜ心の中で唱えて心で聞くことが必要なのか。」を細かく観察し思惟すれば、心の中で唱えて心で聞くことの目的が実は精神を集中し、妄想を無くすことであると理解できます。その時、仏陀を憶う念がありのではなく、それがはっきりと明瞭なものではありません。時々仏陀を憶う念が全くなく、定境の状態(ある対象に心を向けて精神統一し、乱れない心作用、及びその状態をいう)になっています。このように観察しはっきり理解した後、転換すべき時がわかってくるでしょう。そしてその時、心の中で唱えて心で聞くことから心の中で唱えて心で憶うことに転換し、それに心の中に途切れない仏陀の名号を配合し、仏陀を憶う清浄な念を維持し絶えないようにします。私達は念仏法門を修学しこのような段階に達した場合、念仏する過程の中に幾らか仏、菩薩の冥応し、或いは仏菩薩が姿を現すような感応を感じ取れるはずです。それによって、私たちの自信が非常に強くなり、退きやすくてはません。

四、無相念仏 (音声、文字、形象がない仏陀を憶う修行法門)

このような人が無相念仏(外観がない仏を憶う)を修学できる段階まで来たという理由として、前世の中にお釈迦様と三宝(仏、法、僧)を恭敬供養し、福田(福徳を生み出す田の意)を広く耕して、善根を深く植えたことであり、また禅定を兼修し、浄土と禅定を両方修行し偏りがありませんでした。そして、常に善知識と親しくして、絶対に耳から口のことをしませんでした。念仏法門を深く探索し思惟しても構わないと思い、絶え間なく自分の念仏の層次を高めていったはずです。そのため、今生は念仏法門を主に修行しており、定を修行する知識も忘れなく摂取しています。また、浄土法門及び定を修行する法門の基本的な知識を具備しているので、絶え間なく精進に修学している間、細法は段々に出てきました、自然に無相念仏の層次に達します。心の中に仏を憶う時、仏の名号、仏の姿、外観がまったく出てきません。深い善根と厚い福徳及び知恵を備えているので、この法門は真実な念仏法門であることを深く信じ、疑いなく、一心に決定し、深く修行し始めます。また、自分が往生する時、高いほうの等級で西方極楽浄土に往生することができると信じています。この方法は楞厳経の中に「大勢至菩薩念仏円通章」に述べた方法である「憶仏念仏、都摂六根、浄念相継。(仏を憶し、仏を念ず、都な六根を摂め浄念を継続させる)」。もし姿.形のない仏を憶う及び拝む方法を練習できれば、とても容易に無相念仏法門を日常生活の中に運用することができます。従って、動静の中にしている時も姿.形のない仏を憶うことができます。つまり無相念仏することができるのです。

この念仏法門が修学して成就したら、また日常生活の中で常に仏を憶い続けられる人が仏、法、僧の三宝に対して、既に信心具足し、自分に対しても深く信じていると思います。このような人はこの一生、三宝から離れず、三界(欲界、色界、無色界)を出てたい心が起こずにはいられません。もし自分で修行する時、或いは念仏の修行集会の時、非常に精進的に名号を唱え、名号が出てこないまでに当たり、爾時仏の名号が生じないし、一心に自分が唱えている仏に集中し、心が乱れてはなく、仏を憶い出す念が絶え間なく続けられる人が、このような境界を体得できることでしょう。

この人が更に精進に修行すれば、この法門について、もっと深く仏陀を憶い、思惟し、修習すれば、明確に「仏様の外観は仏ではない、仏様の名号は仏ではない、名号を唱えている声は仏ではない、仏様を感応した時の仏の姿も仏ではない」ということを理解します。仏は唯是れ一心なり、仏は覚(本覚)者であります。二千五百年前にインドで示現された釈迦牟尼仏は法身(諸仏が永遠不滅な法体です)から示現されたもので、化身仏であります。仏の本体は生じることも滅することもなく、真実な仏は空でもなく有でもなく、空と有から離れないものであり、それは真実な心であります。従って、私たちは念じているのはこの心であり、その心は名号がなく、声がなく、形象がないものである。私が念じている仏は、たったこの心であり、よって、声、名号、形象で念仏する必要がありません。従って、自分の心の中で声、名号、外観を捨てて念仏するということを確定します。念仏する人は一心に思惟し、この知見(法を聞き、また見て得た知識)を深く理解し、声、名号、外観を捨てて、無相念仏を開始します。もしこの無相念仏の清浄な念を座禅から日常生活の中まで移し、続けて練習すれば、無相念仏が一日から三日までの間に初歩的にできるようになります。更にとても精進な人なら、絶え間なく修行し、それを深く体験すれば、一周、二週、一ヶ月、二ヶ月で憶い出さなくても自然に憶いが溢れるような境地に達成し、仏を憶う念が泉のように湧き出て、続々と絶えないようになります。この念を意図的に思い出す必要がなく、常に自然に存在することであります。

この仏を憶う念が無相ですが、十方の仏を憶っているのではなく、一つの特定的な仏を憶うだけです。無相でありますが、心の中でどの仏を憶っているのがはっきりわかります。この仏を憶う念が無相(外観がない)なので、体得することが比較的に難しいです。名号を唱えて仏を憶うことができれば、より簡単に体得できるでしょう。私は無相で仏を憶い、拝む方法で補佐し、念仏する人達が迅速にこの境界に深く入るように助けてくれます。読者はもっと詳しく知りたいなら、掘り下げて探討するために仏教正覚同修会にて「無相念仏」という本が貰えます。

無相念仏法門を修習したい人は攀縁(俗縁に惹かれ、かかわること)の心、覚観の心(感覚を望む心)、疑う心、慢心を減少し或いは除去しなければなりません。攀縁の心があれば、名号、声、外観を捨てることができない、或いは捨てることができても、清浄な念を絶えずに続けることを維持できません。覚観の心を捨てなければ、あれこれと疑心暗鬼を生ずし、或いは仏や菩薩の感応を望んで、無相念仏(仏を憶う)の境界に安住することができなくなり、清浄な念を続けることが難しくなります。疑う心を除去しなければ、この境界を疑い、根拠のないものと思ってしまいます。或いはこの法は仏法ではないと疑ってしまいます。この疑いを除去しなければ、十年、二十年、ひいては五十年、百年後まで待って、この法が津々浦々に知れ渡る時期になり、はじめてその時に習い始めます。その時、自分が年を取り、或いは来世になり、必ずしもこの殊勝の法を会うことてはないてあります。とても惜しむことになります。そのような人は古今大徳がこの法を詳しく述べていることを知りません。よって、現在末法時期に仏教の本を流通している者がこの境界に達成することが難しいと思い、この法を無視にしてしまい、広く盛んに顕せなかったのです。或いは少数の人達は利便のため、大徳が述べた「憶念〔憶うこと〕」の旨を名号を唱えると解釈したので、多くの念仏する人達が疑い深くなり、二の足を踏んでしまいました。

また、ある人達がこの法を修行できない理由は「慢心」があるからです。このような人達は禅を貴び、十年、二十年の時間を費やし、たとえ「話頭」(頭の中に話が出てくる前の段階)を見つけることができなくても、また石の上にも三年てあります。このような人をとても敬服し不憫に思います。或いは白髪の老人となっては経書をきわめてことを貴び、仏教学の学者になったが、荏苒して今日に至る、自分も年を取ってしまいました。この二つタイプの人達は往々にして念仏することが不精であり、念仏する人達と一緒にいたがりません。私達は仏教が蓮の花を象徴として、その因縁があるということを知っています。蓮の花は仏法の清浄と尊厳を象徴しているが、蓮の花は汚い泥の中で成長しています。仏を学して人々は自分の慢心を除去することができれば、心が謙虚になり、簡単に法を受け入れることができ、念仏する法門を学習することが容易に達成できます。私は 1989年5月から無相念仏法門で人を助けてくれて以来、慢心が仏を学して人々に大きな損害をもたらすことをしみじみ感じました。慢心がなければ、仏法の勉強が迅速にでき、法を受け入れることが容易になります。慢心があれば、往々にして権威のある者を崇拝し、名声がない善知識を信用しません。たとえ本当の善知識が前に現れても、習わせず、みすみす好機を逃してしまいます。これがゆえに、念仏法門に深く入りたいならば、慢心を必ず除去しなければなりません。

因地で事相の修行から 仏地の理体までの円満----即ち因地の衆生の真実心は 仏地の真如心です

この無相念仏法門は無相と言いますが、未だ本当の実相(真実心を指すこと)ではありません。この念仏の方法で名号、声、外観を捨てたので、世俗の現象に対して無相であるため「無相念仏」という名称が作られました。

実相は無相でありますが、無相は必ず実相であるというわけではありません。その違いは、世俗の現象に対して無相と言いますが、その無相は世俗の知識で認識されることができます。例えば、無相念仏の無相、霊知(有念でも無念でも意識が了知できることを指す )心の無相、無色界衆生の無相、虚空の無相など。しかし実相は世俗の理解で認識されないものである。例えば真如、仏性、菩提、涅槃。

大乗仏教における所謂実相は無相だけではありません。それは空ではなく有でもない、相であるが(相、ものの相状.様相や特質.特性など、見られるものの姿を指し、またものそれ自体である性に対し、その現象的相状をいう)、相を離れている。無相であるが無相ではない。空と有ではないが、空と有から離れない、所謂中道であります。悟った人でさえ見性していないため、この真実を見ることができないのに、世間一般の人が、自分の意識で思惟することによってそれを理解することができるでしょうか。孰か能く此に至りて。無相念仏は無相でありますが未だ実相ではない、しかし無相念仏の境界は古代から現在まで本当にあります。「大宝積経」巻四に載っていることを引用します「言無相者、所謂無身及身施設、無名無句亦無示現。(無相を言うものは、所謂身体及び身体の機能がない、名称もなくセンテンスもない、示現もありません。)」従って、念仏法門を広く伝播するため、末法時代の念仏する人と禅を修行している人を助けるため、この無相念仏という法門を設けられました。

この無相念仏法門は無相であるが、未だに因地の念仏であります。仮定に、無相念仏法門が既に達成し、仏陀を憶う念が泉のように湧き出していても、法悦の感覚は時間と共に段々慣れていて、薄くなり、消えていきます。もし無相念仏法門を続行すれば、必ずある時突然閃きが浮かんできた「念仏しているのはだれだか。」或いは善知識から冷たく「念仏しているのは誰だか。」と言われ、その瞬間、直ちに東西を弁ぜず、自分が黒いペンキの桶に落ちたようになってしまいます。それから毎日こつこつとこの疑問に体究し、まるで自分の口に熱くて美味しい団子があって、飲み込みたくても飲み込めなく、吐き出せない感じであります。この時、無相念仏の確実な工夫に基づいて、言葉や言語を頼りにしないで、深く体究に入ることができます。いつの日か、突然「身体も知覚も感覚も、虚妄な心と虚妄な意識は何れも私ではなく、一つの念もない真実な心が本当の私である」と悟ったのです。そして、躊躇せずに直ぐに引き受け、一つの疑いもありません。それから、全ての生命の本源を知り、肉眼で見えない真実な心を見ることができ、この時から靈知心が本当の心と取り入れないであります。

今ごろ、鼻孔を打失する時、ある人は大笑いし、ある人は嬉しさで涙し、またある人は顔色一つ変えなく黙って真実な心に安住します。それ以来、輕安を感じ、心と身が明るくきれいになります。直ちに身見(我見)(肉体または見聞覚知の心を実体的な我だと考えること)を断絶し、それにより、疑見(仏、法、僧に対して疑うこと、生命の実相があることに対して疑うこと)も断絶し、従って禁取見(誤った見解で設立された戒律に従って執行すること)も断絶しました。この三縛結(我見、疑見、戒禁取見)が断絶されれば、その無相念仏は果位の念仏になります。しかし果位の念仏であるが、預流にすぎない、即ち聖人になる前の予備レベルで、本当の聖人ではなく、まだ空性に執着し、それが真実と思っているわけです。これは悟ったが見性していないためであり、まだ実相に入っていないので、直ぐに仏性を見ることができるように努力すべきで、実相念仏の段階に入るべきです。

五、実相念仏

念仏法門を修習し、無相念仏を達成できる人は多くありません。また、無相念仏をできる人が真実な心を体究し、念仏で真実な心を悟り、三縛結を断ち切るということは倍に貴ぶべきことであります。しかし、善知識が間違いなしと印可した後、弟子に念仏で維持するようにアドバイスするだけです。先生と弟子の間はお互いにいざこざがなく、時間だけ浪費され、たった食糧を費やす、とても惜しいことになります。実は自分で未だ仏性を見ることができなく、もっと努力して實相念仏を体究しなければなりません。この果位念仏する佛子はこのような道理がわかれば、直ぐに全ての縁を紛らわし、本当の善知識を訪ねるであります。もし本当の善知識に出会う因縁があれば、善知識はその人の見地を聞き、過程を調べ、その人の根機を観察した後、突然彼に平手で叩くか、或いはりんごを投げるか、拳を彼の目の前に振ります。もしそれでも仏性を見ることができなければ、善知識は法語を開示し、念仏する人に体究させます。

この念仏する人は精進に努力に参究すれば、因縁と時期が来たら、熱さで、或いは寒さで、それとも転んだり、犬の吼え声を聞いたり、花などの植物を見たり、喜んだり、悲しんだりすれば、突然一つの念が相応し見性できて、再び無明を破ることができることでしょう。この時、突然仏性はどこにでもあるということに気がつき、笑いをこらえきれないようになり、自分の頭を触り、以前の自分の愚かさと無知を笑い、仏性はずっと自分の目の前にあるのに、以前の自分がどうして見えなかっただろうと思うようになります。そして、至る所を見たがり、至る所を触れたがって、どこにでも仏性があることがわかります。

もし坐禅で静かの中に体究すれば、一つの念が相応した後、直ちに全ての音声に安住し、細かく仏性のないところはないを体得します。座禅が終わっても、至る所に仏性の存在を体得します。このような段階になれば、禅と浄土両方を修行すること及び禅と浄土がお互いに通じ合うことを理解することができます。この時の境界は妄想と雑念から遠く離れ、一心に覚し照了する境界に安住し、言語、文字、思惟法則、世間が設けられたから遠く離れ、形容することができないほど「覚」という境界に安住します。これは「理一心」の境界で、諸仏の本源を見ることであり、即ち法身仏を見ることであります。この時から、引き続き7日、ひいては 70日、覚明(真実な心を悟り、仏性を見ることができたため、常に意識がはっきりしており、清らかな境界が現れる)は常に現れ、頭がぼうっとしなかったり、眠くなかったり、妄想が起きたりしません。普段、妄想が起きなく、一念もないで情(マコト)に當(カナ)ったように、全ての色(形を有し、生成し変化する物質現象を指す)、音声、匂い、味、触感、法の中で、仏性の真実な空と真実な存在及び仏性は全ての物事を生じることを明確に認識します。夜は眠れなく、ベッドに横になっても朝まで意識がはっきりしています。或いは朝三、四時に目が覚め、眠れなくなり、起きてお線香を立てて仏を礼拝しますが、自分に「本当の私は実際に仏を礼拝したことがない」と心の中で思います。それから、自分の心と身体及び世界は全てが幻に思い、真実な感覚がなくなります。また、深い第一義の経典を読み、とても親しく感じ、自分の境界を述べているように感じられます。もし他の人に自分の境界を述べると、みんなにこの人が第一義の経典を解説しているだけだと思われ、「経典の名称と理論を追求しないでください、実際の修行に努力すべきです」と言われてしまいます。本当に泣くに泣けず笑うに笑えないでしょう。これ以外にも沢山の功徳と利益を受けることができますが、唯だ証して乃ち知るので、ここでは詳しく説明しません。

方便をも假からず、自おのずから心の開かるるを得べし

以上述べた内容は一般的に念仏する人が念仏を体究するの過程です。ところが、もっと利根な人は真実な心を悟ったと同時に仏性を見ることができます。善知識より教え導かれなくても自分で仏の法身を見ることができます。これは即ち「大勢至菩薩念仏円通章」に述べたように「若衆生心,憶仏念仏,『現前』当来,必定見仏。(もし衆生心に仏を憶し、仏を念ずれば、現前にも仏をみたてまつり、当来にもかならず仏をみたてまつるべし)」。もし来世がこの理一心の境界まで修行できれば、即ち「当来」必ず仏陀が見られるという意味です。その上、「見仏」ということは自性仏(自分自身の仏)を見る。諸仏陀の法身を見る。全ての衆生の法身を見るという意味で、仏陀の化身を感応することではありません。この時、突然何かに気がつく「諸仏陀の法身はこのようだ、全ての衆生の本来面目もこのようだ」と言います。もしこの人が参禅したことがあれば、この時「なんとこれは土城和尚(台湾で有名な大師)が立っているところで、良い三十回の杖を受けることだ」と言うでしょう。

この実相念仏の修行に対して疑問を持ってから仏性を見るまで、全部の体究過程において「方便をも假らず、自から心の開かるるを得べし」ということです。なぜ方便をも假らずのか。これは、実際は仏陀を無相に憶うので、且つ実相が無相であることに極めて相応しているからです。禅を学ぶ必要がなく、自然に禅ができるからです。参話頭を学ぶ必要がてはなく、自然に参話頭することができるからです。頭が潰れそうになるまでかみしめなくても、自然に疑問を持つようになるからです。善知識がいなくても、自から心の開かるるを得べしです。心を開く過程は短く、一日かかる人も居れば、長くて十何年かかる人、或いは来世になる人も居ます。故に、「現前当来、必定見仏」と言います。従って、「悟りが遅かれ早かれて、必ず心が開くのです」と言うでしょう。

心が開いたから仏性を見たので、この後名号を唱えて念仏することも、観想念仏も、無相念仏も、全て実相念仏であります。なぜならば、実相は全ての相から離れていて、即ち全ての相であるからです。実相は空に非ず、有に非ず、非空に非ず、非有に非ずとして。この時、「一つ仏陀の名号は事(具体的に修する作法の面を事相と言う)と理両方を概括する」と言えるでしょう。念仏の事相と真理両方を良く弁えることができるので、縁に従って人の念仏法門の修行を援助することができます。この時の念仏は別の境界になり、「心を開く」前の無相念仏と違います。この時の念仏は心を用いて心を念じるのであり、自分の真実な心を用いて、仏陀の真実な心を念じることであります。能念と所念と一つの心である(念じることができる心は虚妄な心であるが、真実な心から生まれたので、真実な心の体性の一つである。従って、悟った人の念じることができる心は能念と所念と不二の心である)。異なっているものは仏陀の定と智慧が円満であるのに対し、我々が円満ではないことである。仏陀の福徳と智慧が完備しているが、我々は完備ではないということです。将来を展望すると、永遠に三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)に落ちないのですが、成仏するまでの道が未だ遥かに遠い為、仏陀を憶う時に自分自身が恥ずかしいと思ってしまいます。この境界まで達していない仏子を思うと、悲しく不憫に思い、大悲な心が自然に湧き起こり、順序を追って彼らをこの境界まで達成できるように助けたいと思うでしょう。

この段階になった者が往生する時に上品上生(極楽浄土に往生する者の階位を上.中.下に三分した、その最上位。更に上品上生.上品中生.上品下生に区分する)で極楽浄土に往生したいなら、必ず阿弥陀仏の摂受を受けます。往生する前に、みんなを慰め予告します。往生する時が来たら、金剛の台に座り、極楽世界に往生します。その時阿弥陀仏とお会いし、直ちに無生法忍を悟ります。一瞬の間に十方向の世界で計り知れない仏陀を礼拝し供養することができます。諸仏陀の前で順番に授記を受けてから極楽浄土に戻り、計り知れない百千陀羅尼大総持門を獲得します。

念仏する人はここまで修学できれば、極めて大きな功徳受用と解脱を得ることができます。例えば、みんなの前で侮辱されても、心の中に本当に瞋怒にならなく、相手にしません。しかし、これで満足してはいけません。仏子の念仏することを援助する一方、広義の念仏法門を続けて修学すべきです。主な方向は種智と根本四禅を修学することです。実相に入ったので、煩悩がほとんど除去され、四禅を修学すれば他人に比べると百倍千倍より早くなります。四禅ができれば、続けて観禅、錬禅、薫禅、修禅を修学すべきです。これらは全て定であり、定によって計り知れない百千の三昧が生まれ、仏道に向かって、計り知れない衆生に利益を与えます。くれぐれも実相念仏の境界で満足して、停滞しないてください。

疑問を解く

ある人は「この文章は念仏に関して述べているので、禅について議論すべきではない」と言います。実は、これは念仏の層次を上げるための転換に関する議論しべきです。例えば、名号を唱える念仏する人は心で唱えて心で聞く段階に停滞していることが多く、心で唱えて心で憶う段階に転換することを知りません。心で唱えて心で憶うことができた後、無相憶仏に転換すべきで、全ての相を捨て離れるべきです。ある人は仏を憶う時に、名号が出てこないのを悩むとも言いますが、これは転換がわからないからのです。無相念仏(仏陀を憶う)の念が泉のように湧き出し途切れない時、念仏を体究すべきで、即ち事相の修行から真理の証悟に転換し、これも転換であります。私は常に知見が不足している者、或いは禅の修学を排斥している者がこの煩悩で退却し、無相念仏の境界に停滞し、「見仏」因縁を失ってしまい、実相念仏境界に入れないという者を見ます。このような人は上品上生の果報をみすみす好機を逃してしまい、とても惜しいと思います。これらは全て知見が不足で転換を知らないためです。

仏法は八万四千解脱法門がありますが、一つ一つ法門の修行は最後に必ず第一義(実相)と相応します。例えば観想であろうと、天台宗の止観であろうと、禅宗の参禅であろうと、浄土の念仏…等、いかなる法門でも、第一義が現れるまで修行できる因縁があれば、その最終的な段階の本質は禅に違いありません。しかし、それぞれ法門の修持は最初から最後まで必ず転換があります。それは雑然としている心から統一している心まで、定力が現れます。定力が現れたので探究したくなり、従って真実な心の空性を見ることができ、即ちそれが悟りであります。そして、見えないことが見えて真実な心を見て、はっきり理解し、続けて体究し仏性を見ることができ、実相が現れます。それで智慧が顕現し、他の人にも利益を与えることができます。

このような転換の過程は異なった修行の方法によってそれぞれに異なりますが、原則は同じです。言い換えれば、禅はそれぞれの解脱法門の最後の段階に存在し、禅宗だけではありません。この段階に達する前の長い修行の目的は定力と知見を増強することです。定力と知見が備われば、いつ転換するのかがわかるでしょう。因縁が成熟すれば、禅が現れます。

簡単に言えば、解脱は次のことから得られたものである。「心を摂めて戒と為し、戒があれば定が起こされる、定から智慧をもたらす」。その転換の原理は有相から無相に、巧みな手段によって実相に入るということです。実相に入ると、無相であり無相でもない。従って天台宗は「理事不二(真理と事相は二つのものではありません)」と言います。禅宗は「渓声便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し」と言います。浄土宗は「一つ仏陀の名号は事理(真理と事相両方)を含む」と言います。このような転換の原理と原則はいかなる宗派であろうとも共通しています。例えば、世尊が経典で説いている、この娑婆世界の東方における不眴世界は、文字と言葉がなくても、その世界にいらっしゃる仏陀がやはり仏法を用いて諸菩薩を化導できる。文字と言葉がないけれど、無相念仏を修学する人のように、初めに念仏の念を文字の相及び仏陀の名号を唱える声相に置かないで、徐々に修練して転々と進んでいって、更に話頭の参究に転じ、念仏を体究することを成就して、最後に法界実相を証得する。これは無相念仏を方便にして、菩薩を教化し導いて大乗菩提を悟って明心するのである。ここに『大乗理趣六波羅蜜多経』第二巻の世尊の開示を証拠として例をあげる。

「爾時薄伽梵復告具壽阿難陀言:『彼不眴世界無諸苦難,及三惡趣亦不聞名,……國土嚴淨,唯佛法王化諸菩薩,無有文字亦無言說。彼諸菩薩受化之時,來詣佛所恭敬合掌,目不蹔眴瞻仰如來,念佛三昧自然成就,故彼世界名為不眴。念佛三昧云何是耶?所謂非色相生,亦非受想行識生,非前後邊際智慧生,亦非現在見聞所生。』佛告阿難:『其念佛三摩地不可思議,於諸法無所行而觀諸法如實相,無說無示、無相無名,此即名為念佛三昧。』」

経文で挙げているように、世尊が説いた不眴世界は、文字もなく、言葉もないが、その世界の諸菩薩は仏陀に親しみ、仏陀の化導を受ける時、恭しく合掌して、目を凝らして如来を仰ぎ見るだけで、念仏三昧が自然に成就してしまう。その時、言葉や文字を離れた自性弥陀(自心真如、如来蔵)を証得できる。これは無相の方便によって直接実相に入るのである。ここに念仏と唱名がないのに、何故経文の中で念仏三昧がすでに成就したと言えるのか。明らかに念仏の体究の真義は、実相の証得と参究の過程である。これが体究念仏なのである。しかも、念仏の本質は真の仏を見て、つまり法界実相を自ら証得すること、これが見仏の真義なのである。なぜならば、世尊の説いた念仏三昧は色や、受や、想や、行や、識の法相から生じるものではなく、諸縁が安立されている十二因縁法から得る智慧から生じるものでもなく、目の前で見たり聞いたりする見聞覚知の法から生じるものでもない。念仏三昧は、意識で思議することができないことである。目の前で、一向に見聞覚知をしなくて、見聞覚知を離れた自性弥陀を一念相応(証悟すること)すると、般若智慧で自性弥陀が五蘊諸法を生じる根源であることを観察できる時、自性弥陀は、もとから生じることがなく、自性弥陀に含まれる蘊処界の法種及びさまざまな功徳法性ももとから生じることがでもなく、因縁に従って五蘊諸法を生じてきて、これが諸法の如実法相なのである。それ故に、自性弥陀は諸法の実相なのである。諸法の如実法相を観察できる智慧が念仏三昧なのである。

真摯の助言

念仏法門を修学する初期、定期的に念仏の修行集会に参加し、善知識の著書を参照し、普段自分が仏陀の名号を唱えることを配合すれば、利益を受けることができます。精進に無相念仏の段階まで目指しているなら、修行の過程で、少数の人々は感応を経験する可能性があります。例えば、光を見る、良い香りを嗅ぐ、仏陀金色の身体を見る等…これはうれしいことですが、執着してはいけません。極めて少数な人(一万分の一人)は座禅している時に仏陀を見ることができ、仏陀が説法してくれたり、修行に関して指導してくれたりすることもありますが、必ず三法印と四依法に基づいてその教えが間違いないものと実証しなければなりません。もしそれが相応できなければ、それらの教えに従わないようにしなければなりません。一部分の人達は無相念仏を熟達した後、安らぎ、清涼、大喜び、同情、慢心を除去、定に入ること…などの現象を発生します。これらは全て定の心の顕現であり、驚くと罣礙が必要てはなく、続けて深く入り込んで修習すべきです。

更に、近年、数人の仏を学して人々とお会いしたことがあります。彼らは参禅により、或いは念仏を体究したことにより、言語、文字、妄想が無い境界に達した時、彼らは勇敢に無相念仏の心を引き受け、そして「この心は本当の私」と思い、善知識にそれを提出しました。善知識はこれを悟りと承認した為に、彼らは渾然にこれが虚妄な心であることがわかりませんでした。もし「言語、文字、妄想から離れた心は真実な心」であるなら、全ての言語、文字、妄想が無い動物の心は言語、文字、妄想から離れています。全ての定を修行し成就している人達も言語、文字、妄想から離れることができ、そして彼らの認識の心は真実な心となります。もしそれが本当に真実な心であるなら、どうして彼らに悟りの解脱功徳と受用が現れないのでしょうか。このような微細な所で、真の善知識しか明確に見分けることができないのです。従って、真の善智識が仏教徒を正しい知見を指導し上手で、正確な道に進めるように導く必要があります。念の無い靈知心を悟りとしてはいけません。定の境界で花を見ること(心の花)を悟りとしてはいけません。さもないと、悟りの空を得ることができなくなり、更に実相の空と有の不二境界に入ることもできなくなるでしょう。

従って、念仏を体究する際に、真の善知識の指導が一番大切です。本当の善知識というのは、実際に実相の境界に入った人であり、自分で仏性を見ることができ退かない人であり、第一義を明確に理解し、巧みに手だてを講じて人を導く、念仏する人に有相から無相に、そして権仮で実相に入ることを指導できる人であります。この善知識は必ず有名で人気な人とは限らないが、仏を学して人々の修行を導くことができ、仏を学して人々の境界を勘検することができます。彼は念仏を体究している人が虚妄な心を真実な心であるという誤解を避けることができ、虚妄な感覚を本覚であるという誤解を避けられます。また、彼は仏を学して人々を順番に実相念仏境界に入れさせることができ、仏を学して人々が神聖な境界に対する執着を取り除くことができます。幸い、このような善知識が台湾では段々多くなってきて、彼らを見つけるのは難しくありません。重要なのは、我々念仏する人達に自信を持たせること、慢心を取り除くこと、菩提心を発すること、菩薩行を行うことができるかどうかということです。でなければ、善知識が我々の前に現れたとしても、面と向かって外すを恐れてしまうでしょう。

以上述べた内容は名号を唱える念仏により事相の修行から仏性を見る真理を証する段階まで、全て五つの層次です。無相念仏が容易に達成できないが、便利な巧みな手段を使い、手順良く決まった段取りに従う、努力に練習すれば、それほど困難ではありません。実相念仏はほとんどの人々の望みを超えていないのですが、それも不可能ではありません。無相念仏三昧を達成できれば、常に精勤に護念し、慢心を取り除き、菩薩の素晴らしい心を発起して、毎日お釈迦様に跪いて真の善知識との因縁とその所在を導いてくれるように祈り、そうすることにより、必ずある日真の善知識と出会え、その善知識の二言三言わずかな言葉により問題を解決できるかもしれません。もし未だ真の善知識と出会えていない場合、未だ因縁が足りないということで、弱気になる必要がありません。細かく体究さえすれば、今現在仏陀を見ることができなくても、少なくとも人身を守ることができるので、来世確実に仏陀を見ることができるでしょう。

本当に菩薩種性である者はしばしば無相念仏三昧が達成した後、二、三年以内に自分で修行し、自分で悟り、自分で実相を見るができます。また、経典及び論の中に多方面にわたってそれが正しいものであると実証することができます。菩薩の大きな心を発起し、慢心と弱い心を取り除かなければ、実相念仏境界を求めても是の処有ること無けんであります。ここで私は誠心誠意を持って全ての仏子と一緒にお互いに励まし合いましょう「全ての仏子が仏陀を憶い、念仏することを願いましょう。皆は現前か将来仏陀を見ることができるでしょう。そして、皆は心を広くして、全ての衆生に恩恵を与えましょう」。


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